イギリスは多くの森林を失い、牧草地と化した野山が負の景観になっていると聞いています。そしてイギリスの庭は緑豊かな自然を失った反省が込められているとさえいわれています。幸いなことにイギリスは日本よりは気候が温和で、急峻な山もなく、台風、地震、豪雪などの気象災害がないところです。これが日本であれば大地は壊滅的な被害を受け、治山治水に莫大な費用と労力を費やさなければならなかったに違いありません。
日本そのなかでも北海道はまだ恵まれた環境にあるのですから、各自が自分の庭だけにエネルギーを費やすのではなく、周囲の景観や自然環境にも目を向ける時間があってもよいのではと思います。特に社会的に影響力のある方には、現地の庭園紹介に終始せずもっと幅広い観点から情報を発信して欲しいと思います。そこに住む人々の遺伝子に染み込んでいる生活環境、歴史、文化がガーデニングにどう係わっているのか知らずしてイングリッシュガーデンを語っても虚しい気がします。
古い話で恐縮ですが、ランカシャーの観光地でもない小さな町を訪れたときのこと。市街地の中心部に古城のある小高い丘があり、その麓に碑が建っていました。ここを訪れた日本人はいるのだろうかそう思いながら近づいてみると、何とそこにはJapaneseの文字が。かつて日英戦争で亡くなった地元兵士の戦没慰霊碑だったのです。このときの衝撃は今でも鮮明に焼き付いています。一方で街のなかを日本車が走り回り、小さなカメラ屋のショウウィンドウにはNIKON、地元紙にはTOYOTA、NISSANの広告が並ぶ。ここに住むほとんどの人は日本との接点はあっても日本人との接触はないかかわり方をしていたと思います。
歩いたりバスの車窓から見る限り日本で沸騰しているような庭はなく、何本かの樹木や草花、それと野菜らしき植物が目に付く程度でしたが、住宅周りの生け垣だけは綺麗に刈り込まれているのが印象的でした。田舎だからではなくこれが普通のイギリスなのではと想像しています。彼らにとってはこうした日常的な庭での営みがガーデニングであるのに対して、現在の日本ではもっと特化した行為に対する用語になっているような気がします。逆の見方をすれば、京都の著名な庭園をそのままイギリスに持ち込んでこれがガーデニングだといっても広く普及することはあり得ません。多くの人たちが日本の良さを取り入れながら自国に適したスタイルに発展させてこそ定着するのではないでしょうか。
こんなことを書いて水を差すつもりではありませんでしたが、ふと立ち止まり違う角度から自分たちや周囲を見渡すことも大切ではと思うのです。先人たちが培ってきた作庭に対する思想や技術や伝統、気候風土に適した素材はピアソン氏のいう自然のなかから生まれたものであり、今の私たちがそれを学ぼうともせず排除していたのでは正しいとはいえません。そのことは氏が朽ち果てた庭を掘り返していたとき、ふと手を休めそこにあっただろう当時の庭のことを考えた話が雄弁に語っています。
ところでブームという言葉がありますが、地に足がついていないため急速にしぼんでしまう代名詞に使われています。昨今のガーデニングにその言葉を付け加えたくありませんが、その恐れはまだ解消されていないのかもしれません。現に、最近のガーデニングには「和」の素材やエクステリアが流行です。などともてはやされているのをみると情けなくなります。営利目的の仕掛け人とそれに惑わされる人々の構図が浮かび上がってくるからです。もともと「和」の文化や素材の良さを取り込みながら歩んでいればこんな馬鹿げたブームは起こらないのです。幸いなことに、ブームに踊らされることなく自分たちの感性を磨きながら着実に歩んでいる園芸家の方が多くなってきたことも事実です。ガーデニングの裾野を広げるためにもこうした人たちの努力が実ることを期待しています。
この度の講演は、単なるモノやテクニックの紹介ではなかったと思います。ピアソン氏はインスピレーションによって庭を様々な感情と思いを形にする芸術作品、例えば音楽、彫刻、書道、舞踊、演劇などと同じレベルに高めようとしているのでしょうね。私ごときが本質を到底理解することは出来ませんが、そのインスピレーションとは自ら生み出しているのではなく「自然の偉大さ」が発してくれるものかもしれません。
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